益山(イクサン)の百済世界遺産をめぐる旅~弥勒寺址・王宮里遺跡
 吉村剛史(トム・ハングル)
 2018/09/26 改:2019/08/14 

朝鮮半島で百済、新羅、高句麗が勢力を争っていた三国時代、そのなかでも日本とも交流が深かったことでも知られる百済(백제、ペクチェ、くだら)。

百済は紀元前18年に成立したとされ、当初は現在のソウルにある河南慰礼城(漢城)に都を置いていましたが、北方で勢力を強める高句麗から逃れるように、熊津(公州)、泗沘(扶余)へと都を移してきました。

そして百済最後の都となった泗沘(サビ)時代(538~660)に複都とされたのが、泗沘(扶余)から南に約30キロ離れた益山(イクサン、익산)という地域。この地にも百済の遺跡が残っており、熊津、泗沘時代の遺跡とあわせて「百済歴史遺跡地区」として2015年にユネスコ世界遺産に登録されました。

この記事では益山(イクサン、익산)にある百済の遺跡とその見どころについて記すとともに、実際に益山へ訪れて世界遺産巡りを考えている方のお役に立つ情報をお伝えします。

百済の世界遺産の全貌を知りたい方は以下の記事をご覧ください。

百済の歴史と世界遺産をたどる旅~韓国・百済歴史遺跡地区

ソウルから益山へはKTXで1時間20分!

ソウルから益山(イクサン)までは、高速鉄道KTXで1時間20分。多くの列車はソウル・龍山駅を出発します(一部列車はソウル駅発です)。ソウルから益山だけを訪れるなら、高速鉄道KTXで移動するのが便利。もしほかの地域からの移動を考えている場合は、その場所から市外バスを利用することをおすすめします。


[地図]

公州・扶余の世界遺産と併せて観覧する場合は、扶余からバスを利用するのがよいでしょう。また韓屋村などの見どころがある全州からはバスまたは鉄道での移動がよいでしょう。

ルート例1:公州&扶余~益山
百済の世界遺産を目当てに韓国を訪れている方は、公州や扶余から訪れるルートを検討している方もいらっしゃるのではないでしょうか。扶余からは市内バスが出ています。

ルート例2:全州~益山
もともと歴史探訪が本来の目的ではない場合は、「全州を巡ったあとに益山にも立ち寄る」といったプランが最も好ましいと思われます。全州からは市外バスが1時間に4~5本と頻繁に出ています。もちろん鉄道で移動してもよいでしょう。

そのほか近隣の地域から市外バスで移動する方法もあります。

益山の世界遺産めぐり、市内の地図を見てみよう!

益山にある遺跡地は、益山市街地からは少し離れています。益山駅から弥勒寺址までは道のりで約15キロほど離れているため、現地での移動は市内バスを使います。

弥勒寺址へは益山駅・益山ターミナル下車後、市内バス41番、60番、60-1番、60-3番に乗車して移動します。王宮里遺跡へは弥勒寺行きのバスと同じ41、60番のほか、61、62、63、64、65、65-1番バスでアクセスが可能です。

韓国でバスに乗車する際は、運転士の方に尋ねるようにしましょう。行先が分かりにくいため、反対方向に乗らないようにご注意ください。

益山・弥勒寺址~『三国遺事』の薯童説話

弥勒山(431m)の麓には弥勒寺址(미륵사지、ミルクサジ)があり、東洋最大規模を誇る寺院跡です。13世紀末に高麗の僧によって書かれた『三国遺事』という歴史書にある「薯童説話」には、弥勒寺が武王の時代に建てられた、という記録が残っています。


[弥勒寺址の入口、背後には弥勒山を望む]

「薯童説話」の主人公の薯童(ソドン)は、女と龍のあいだに生まれた子。薯(山芋)を売っていたことからこう呼ばれた薯童でしたが、彼はお隣の国・新羅の真平王の三女である善花(ソンファ)姫が美人であることを知り、惹かれるようになります。


[ドラマ「薯童謡(ソドンヨ)」]

そこで薯童は歌を作り、子どもたちに歌わせて新羅の都で流行らせます。その歌の中身とは・・・?

「善花姫は夜に薯童と密会している」

というもの。

この歌が真平王の耳に入ることになり、怒った王は娘を追放するのですが、そこで待っていた薯童は彼女を百済に連れて行きます。そこで黄金を掘り当て、真平王に送ると真平王は大いに感心します。その噂は百済にも知られるようになり、ついに薯童は百済の王に、善花(ソンファ)姫は王妃となるのです。その百済の王は武王だとされています。

ある日、師子寺に行く途中に龍華山(現在の弥勒山)の麓にあった池に弥勒三尊が現れると、王妃はここに寺院を建てたいと申し出て、法師の神通力で一晩で平らにし、真平王の協力もあって、この場所にお寺が建ったのです。このお寺が「弥勒寺」。

敵対する新羅の王女が百済の王妃になることは現実的ではない、と考えられていますが、「池を埋めて3か所に塔と金堂、回廊を建てた」という記述は、調査により事実であると明らかになっています。

その3か所の塔のうち、中央は木塔、西塔と東塔は石塔でした。そのなかでも形が分かる程度に残されていたのは西塔だけ。大部分は壊れた状態で、6層だけが残りました。安全性に問題があるとされ、2001年から本格的に解体調査が行われるようになります。

塔のあった場所は覆われており、外から目にすることはできない状態に。解体された塔の石にはすべて番号が付けられ、ひとつひとつ並べられている様子が下の写真です、その番号通りにきっちりと復元されます。解体時に発掘された遺物から、西塔は639年に建てられたことがわかっています。

覆われた内部を見てみると、解体が完了した時点では写真左の状態(2013年)。そしてある程度復元された状態が写真右(2017年)です。

この西塔は建立時の姿まで復元されてしまうと、ユネスコ世界遺産の基準を満たせなくなるため、解体調査の前の状態に戻されるとのこと。2018年12月に弥勒寺址石塔として公開される予定です。

そして東塔はいくつかの石材が残っており、西塔とも比較されて算出した結果、九層であることが分かっています。そこで1992年に東塔が再建されました。高さは24mあります。


[東塔]

弥勒寺址の敷地内には他にも「国立弥勒寺址遺物展示館」があり、弥勒寺の模型や出土された遺物などが展示されています。今後、国立益山博物館として生まれ変わります。

国立弥勒寺址遺物展示館
観覧料:無料
観覧時間:10:00~18:00
休館日:毎週月曜日、正月、旧正月、秋夕
国立弥勒寺址遺物展示館(日本語)

益山・王宮里遺跡

弥勒寺址から約6キロ、市内バスで約20分ほどの場所にある王宮里遺跡。泗沘時代、首都の機能を補う複都とされた益山(イクサン、익산)に作られた王宮の址です。

1989年から20年間かけて発掘調査が進められ、南北約490m、東西240mの敷地のなかに宮殿や寺院があったことがわかりました。王宮内は周辺よりも3~4m高い台地のようになっているのは、威厳を見せるためだといいます。


[王宮里遺跡展示館・王宮里遺跡の入口]

現在の王宮里遺跡には当時の建物は残っておらず、築石のほか庭園や大型トイレ址が残っているのみです。観覧する上ではあまり見栄えはしないものが多いですが、発掘によって庭園が日本にも影響を与えたことや、日本のトイレと比較することができるようにもなったのだといいます。

王宮里遺跡に残っている唯一の建物は、国宝289号に指定されている「王宮里五層石塔」。しかしこちらは百済の遺跡とは異なり、百済が滅亡後、新羅の時代を経て高麗時代初期に作られたものだといわれています。当初は王宮として作られた場所でしたが、7世紀半ばからは寺院として使われていたことがわかっています。

そして王宮里遺跡からは、瓦や土器のほか、排せつ時に使われた籌木(ちゅうぼく)など、当時の生活の様子をうかがい知ることができる貴重な資料が出土しており、併設されている王宮里遺跡展示館に展示されています。

こちらには模型や人形などとともに出土された遺物が展示されており、ビジュアルとともに当時の様子を想像しながら展示を観覧できます。王宮里遺跡を訪れたら、ぜひ立ち寄ってみてください。

王宮里遺跡展示館
観覧時間:9:00~18:00
休館日:1月1日、毎週月曜日
王宮里遺跡展示館

百済の複都、益山の遺構を訪ねてみよう

益山にある百済の遺跡は残存している建物が少ない点では、他の地域に比べてどうしても見劣りしてしまう部分はありますが、「弥勒寺址石塔(西塔)」の解体調査は17年の歳月を経て行われ、ついに2018年にお披露目されます。

639年に建立されたと判明した石塔は完全な形ではありませんが、1300年以上の長い月日のあいだこの地に残され続けたと思うと、その重みを感じることができるでしょう。

また益山は宝石の町としても知られており、宝石博物館には純金で作られた「弥勒寺址石塔」が展示されていたりもします。遺構を見るだけでは物足りないという方はそちらに立ち寄ってみることをおすすめします。




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